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1989(平成元)年

 この年のオフェンスはIフォーメーションからのオプションを中心に、前年、京都大学を破る原動力となったRB#5西川、#35小武の走力を活かそうというものであった。
エースQB#7大久保のアフターにRB陣、WR陣もよく付き合い、秋のシーズンには何とか形になった。

 秋のシーズン開幕は宝ヶ池球技場での立命館大学戦。1回生を含む多くの下級生がスタメン出場し、前半は7対20とリードされたが、4回生OL#78山口を中心に若いラインがよくまとまり、RB#40萬谷のランなどで21対20と逆転。初戦突破かと思われたが、再逆転を許してしまった。

続く同志社大学戦も第3Qまでは拮抗していたもののファンブルから崩れて連敗スタートとなってしまった。

第3戦目の相手は関西学院大学。先制されたものの前半を7対10で折り返した。しかし、ファンブルなどで第4Qには7対24と突き放されでしまった。しかし、ここから怒涛の反撃が始まる。QB#7大久保のパスがWR#12井上、#14矢口に面白いように決まり、14対24として、続くオンサイドキックが成功。次のオフェンスシリーズでも3本のパスであっというまにTDが決まり、21対24と3点差に迫る。2回目のオンサイドキックも成功し、オフェンスに期待をつなぐが、最後のTDパスはエンドゾーンでカットされ、惜しい星を落としてしまった。

その後は、京都大学に完敗した後、甲南大学、京都産業大学には勝利。最終戦はスピードと強風に苦戦、近畿大学に完敗を喫してシーズンを終えた。

(レイバンズ30周年記念誌より抜粋)

1988(昭和63)年

 1部復帰という歓喜の中、「4回生が抜ければスタメンは3人しか残らない。」という不安を抱えながら始まった88年シーズン。

 西日本選手権では京都産業大学に48対21で勝ち、続く京都大学戦も7対16と善戦したが、横浜国立大学との定期戦、九州大学戦との交流戦は完敗に終わった。春の東西学生オールスター戦である西宮ボウルには神戸大学から誰も選ばれないという悔しい結果であった。

 秋の初戦、京都大学戦は2回生RB#5西川のランが炸裂。ディフェンスも踏ん張り、K#84西堀のFGもことごとく決まり、終わってみれば26対14の完勝だった。

しかし、その後、関西学院大学に完敗、続く甲南大学、同志社大学にも惜敗した。大阪体育大学には勝利したが、残留がかかった立命館大学戦は残り3秒でFGを決められてしまう。近畿大学にも敗れ、5位が3チームになり、7位を決める負け残りトーナメントのプレーオフに進むこととなった。

くじ引きの結果、1回戦は不戦敗となり、近畿大学と大阪体育大学の敗者との一発勝負。RB#5西川が注射を打って強行出場、勝利が確実になった終盤、リーグ戦で出場機会がなかったWR#20遠藤が1プレーだけ入り、TDパスをキャッチするなど、印象深い試合となり、1部残留が決まった。

(レイバンズ30周年記念誌より抜粋)

1987(昭和62)年

 87年12月3日。1部リーグ昇格をかけてRAVENSは長居球技場のフィールドに舞い降りた。相手は関西大学。ちょうど1年前、屈辱の敗北を喫した相手だった。

ここに至るまでの道のりは決して平坦なものではなく、入れ替え戦出場を決めるトーナメント準決勝の京都産業大学戦はピンチの連続の中、ぎりぎりの逆転勝ちで部員達はすでに満身創痍であった。

 神戸大学オフェンスで始まった入れ替え戦だが、ファンブル。関西大学はそのシリーズでFGを決め、先制する。神戸大学のオプション攻撃はことごとく止められ、焦る気持ちから自陣で無謀なギャンブル、失敗、そして関西大学のTD。

しかし、続く第2QでDB#22宮崎がインターセプトをし、流れを変えた。QB#9柳からWR#6渋谷へのロングパスが決まる。逆転し、前半10対14で折り返す。

後半の勢いは完全にRAVENSのものだった。「5、4、3…」カウントダウンがこだまする。
関西大学最後の攻撃はロングパス。ボールはDB#24澤村の手に収まり、時計は0を示した。

フィールドの選手、応援団員、観客席の誰もが互いに抱き合い、喜び、泣いた。
35対10で神戸大学1部復帰。まさに「臥薪嘗胆」の1年だった。

(レイバンズ30周年記念誌より抜粋)

1986(昭和61)年

 レイバンズ後援会が発足したこの年。横浜国立大学との交流戦を定期戦に改め、現在のような東西交互開催となる。

 京都大学や関西学院大学との力の差は歴然としていたが、目標はいつも「甲子園」であった。しかし、秋のリーグ戦の結果は同志社大学、大阪大学には勝利したものの、2勝5敗で7位。入れ替え戦出場となった。

 入れ替え戦の相手は関西大学。入れ替え戦には負けるはずはないと思っていた。しかし、1部校の「誇り」がいつの間にか「慢心」となっていたのだろうか?
結果は敗北。「惨めな気分」「砂を噛んだかの気分」「空気までもが重たい感じ」……。

この試合は86年度のチームにとって本当に「心に残る試合」であった。

(レイバンズ30周年記念誌より抜粋)

1985(昭和60)年

 創部10年という節目の年。
部員は100名を越えマンモスチームの仲間入りは果たしていたものの、タレント揃いの上級生は卒業した後で、1、2回生がレギュラーを狙う下克上が当たり前の年でもあった。

 春の練習試合では負けが続いた。また、新入生の鳥居が交通事故で亡くなり、言いようの無い悲しみがチームを包んだ。「鳥居君の分まで頑張るんや!」…部員全員が心に強く誓った。

 春の最終大阪体育大学戦では負けはしたものの、チームレベルが確実に上がってきていることを実感したのだった。
記録的な猛暑の夏を乗り切った、秋のリーグ戦。第3戦までは大阪体育大学、関西学院大学、京都大学と3連敗。第4戦の近畿大学戦では30対7でシーズン初勝利を手にした。

次の中京大学戦では逆転勝利。第6戦の同志社大学戦ではDB#13殿井が終盤の正念場でインターセプトし残留が決定。皆、歓喜の雄叫びをあげた。

 最終の立命館大学戦では10対28で初の勝ち越しを逃し、3勝4敗同率4位で85年シーズンを終えた。

(レイバンズ30周年記念誌より抜粋)

1984(昭和59)年

 春の西日本トーナメント3回戦。
数々の名勝負・名場面が繰り広げられた今はなき西宮球技場。
相手は前年12月の甲子園ボウルで日本大学を下し、続く1月に行われた日本選手権(ライスボウル)でもレナウンに競り勝って名実共に日本一のチームであった京都大学。

その京都大学を神戸大学が破るというビッグサプライズで84年のシーズンは幕をあけた。

 京都大学のキックオフで始まった第1Q、神戸大学オフェンスラインが京都大学オフェンスラインを完全に圧倒し、RB#34辻本が66ヤードを独走し、先制TDをあげた。その後もRB#19川上が69ヤードを走り抜き、TDを追加。第2QにはDB#44中井のインターセプトでチャンスを呼び込み、#19川上のFGが決まって16対0で前半を折り返した。

第3Qには、立て続けに2TDをあげる京都大学の猛反撃にあったが、神戸大学ディフェンスが踏ん張り、#19川上がダメ押しのTD。ベンチ・スタンドが一体となったカウント・ダウンの合唱の中、創部以来の悲願であった打倒京都大学が実現する瞬間を迎えた。

3TD、1FG、4インターセプトという攻守共に最高の内容での大金星。翌日はスポーツ紙を始め、全国紙までもが神戸大学の勝利を報道するほどの快挙であった。

(レイバンズ30周年記念誌より抜粋)

1983(昭和58)年

 春シーズンに主将#75白石、攻撃ラインの要・#52竹村が怪我に襲われ、秋にはエースQB#11今中、WR#13南も怪我で戦線離脱することになった。

また、関東の有力校と練習試合ができると勇んで出かけた山中湖夏合宿は数十年ぶりという大雨に見舞われ、まともに練習ができないという不運が重なったシーズンであった。

 前半の大阪体育大学、関西学院大学、近畿大学、京都大学と、上位校からは勝利を得ることはできなかった。絶対に落とせない立命館大学には無念の引き分け。既に一勝をあげていった大阪市立大学との一戦は、ロースコアの展開となったが、相手の反撃に対し総力のディフェンスで凌ぎ切り、初勝利をあげた。

 関西大学との入れ替え戦は第4Q残り4分、得点差13点で攻撃は関西大学。じりじりと攻め込まれていた。立命館大学戦から復帰していた主将#75白石がハドルに入り、力づいた神戸大学ディフェンスは最後のロングパスをエンドゾーンでカット。
試合終了のホイッスルが鳴り、1部残留を決めて次代へ夢をつないだ。

(レイバンズ30周年記念誌より抜粋)

1982(昭和57)年

 秋のリーグは、初戦から3連敗の後、3連勝。

 第3戦目の京都大学戦ではエースQB#12尾崎が腕を骨折し、途中退場。強力オフェンスの京都大学を前に記録的大敗を喫した。

第4戦目の関西大学戦は、大敗した京都大学戦後の試合で、関西大学サイドは神戸大学オフェンスはランしかないとの読みで対応してきたが、その裏をかいた攻撃が奏功し、ラン・パスが決まって大勝。

第6戦目の岡山大学戦では、神戸陣7ヤードまで攻められていたが、岡山大学がファンブルしたボールをリカバーし、神戸大学攻撃に。京都大学戦で負傷した#12尾崎の代役を務めた2回生QB#11今中が93ヤードを独走し、残り1分を切っての大逆転勝利を果たした。

 最終大阪体育大学戦は神戸大学教養部(現国際文化学部)グランドで行われた。勝ち越しがかかった一戦だったが、ホームの利を生かせずに敗れ、3勝4敗同率4位という成績に終わった。

(レイバンズ30周年記念誌より抜粋)

1981(昭和56)年

 チームの主力である多くの卒業生を送り出し、シーズン終了後間もなく森ヘッドコーチから手渡された1冊の洋書。

「パスは捨てプレー」から一転して、パス攻撃を中心としたオフェンスの組み立てを考えよとの話であった。
終了したばかりのシーズンでは、パスのたびに1部リーグの巨大なディフェンスラインに追いまわされた後だけに良い夢は見られなかった。

 不安を抱えて迎えた81年度シーズン。
シーズン最初の関西学院大学戦の結果は敗戦であったものの、確かなものが感じられた。
その後も、開幕から4連敗ではあったが、確実に1部リーグのスピードがチーム全体が馴染んでいた。第5戦の立命館大学戦ではオプションを交えたラン攻撃、ゾーンの切れ目へのパス攻撃が機能し、ディフェンスもワシントン大学のシステムとスカウティングの成果をマッチングさせることができ、1部リーグ初勝利をあげる事ができた。

最終戦の同志社大学戦にも勝利し、2勝5敗、5位の結果を収めた。

(レイバンズ30周年記念誌より抜粋)

1980(昭和55)年

 前年に1部リーグ昇格を果たし、意気揚々と望んだ春の初戦は、関西学生フットボールの聖地・西宮球技場での同志社大学戦であった。

それに始まり、秋のリーグ、京都大学、関西大学、同志社大学、大阪体育大学、近畿大学、立命館大学、関西学院大学。昇格の原動力となった4回生を中心に完成度の高いプロIからのトリプルオプション、ワシントン大学から取り入れた画期的なディフェンスシステムは効果的に機能するはずであった。

しかし、1部リーグのスピード、試合運びについていけず、近畿大学や関西学院大学には善戦できたものの、関西大学、京都大学にはこれでもかとやられる結果となった。

 結局、初の1部リーグ戦は全敗で入れ替え戦にまわることになったが、1部リーグで揉まれたことが幸いし、相手チームを寄せ付けずに勝利して次のシーズンに夢をつないだ。

(レイバンズ30周年記念誌より抜粋)