1995年1月17日。それは新チームとしての活動開始日であった。そしてその日の午前5時47分、阪神淡路大震災は起こった。「1部完全復帰」をスローガンに1部返り咲きを使命とし、フットボールに取り組んでいたが、その出鼻を挫かれる事態であった。
部員の安否確認と人命救助活動を平行して行った。土に埋もれた方を何人も掘り起こし、地獄絵巻と化した六甲病院に運んだ。結局、部員の安否確認が取れたのは数日後となったが、幸いにも部員に死傷者はいなかった。その後は各自ボランティア活動を行い、平行して、神戸を堺に西地区、大阪北、大阪南の3箇所に分かれてトレーニングを定期的に行う日々が続いた。非効率な分散練習が1ヶ月続き、ジレンマを感じていた部員は、部長である衣田教授に「神戸でアメフトがしたい」と相談した。「いつまでも震災に負けていてはいけない。被災者にメッセージを送る意味においても学生の君達が神戸で活動するべきだよ」と勇気付けるアドバイスに背中を押され、下宿を失って参加できない者を除き、3月初旬から神戸に集まっての練習を開始した。大学グランドが利用できない一方、六甲高校様のご好意で夕方1時間程度グランドをお貸しいただいた。ポジションごとに別れ、空き地でパート練習をし、六甲高校で全体練習をする日々がしばらく続いた。
秋のシーズン2部リーグでの戦いは順調に勝利を重ね、全勝で宿敵同志社大学との入れ替え戦を迎えた。ゲームはオフェンス・ディフェンスともに順調にゲームを運ぶものの決め手に欠き、残り2分を切って逆転を許し、8対5のスコアで敗戦した。
震災下でのフットボール生活から、如何なる環境の変化にも前向きに頭を切り替え、ベストパフォーマンスをすることの大切さ、そして何より如何なる状況においても結果を残すことの重要さを学んだ1年であった。
(レイバンズ30周年記念誌より抜粋)