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1979(昭和54)年

 当時の3回生が質・量ともにチームを支え、2回生以降も数多くのタレントが活躍するようになっていた79年シーズン。
チームのメンバー数も50名以上になり、2部リーグではトップクラスの実力を具え、1部リーグ昇格を狙えるポジションにあった。

 リーグ戦最大の関門は、前年1部から降格してきた甲南大学との最終第5戦。
最終戦でブロック優勝をかけて直接対決するまでの彼らの戦績は4勝0敗、平均スコアは得点61点、失点0点でデータ上はRAVENSを遥かに上回っていた。

当時はパソコンなどもなく、手書きのマトリクスと電卓を駆使して、敵の攻撃パターンを分析し、相手エースランナーのランをことごとく止め、結果、34対7の圧勝であった。

勢いにのったRAVENSは入れ替え戦出場権も手に入れ、万博競技場で行われた1部リーグ7位の大阪経済大学との入れ替え戦は見事勝利を得、1部リーグ昇格を果たした。

(レイバンズ30周年記念誌より抜粋)

1978(昭和53)年

 前年の入れ替え戦をかけたトーナメントでの敗北から翌年の1部リーグ昇格に至る草創期における変革・変動のシーズン。
 まず、人材面での充実があげられる。
2部リーグでは突出した部員数を誇り、また、77年シーズンに辛酸をなめたメンバーが成長するだけでなく、新入生を迎えて選手層が格段に厚くなった。

それに伴い、戦術も変化していった。
さらにこの年の春、初めて京都大学と練習試合を行うことができた。
京都大学にとっては新人戦の相手に選んだ、という程度の試合ではあったが、京都大学グランドには所狭しとRAVENSを応援する人が集まった。

当時RAVENSは「第二の京大」と一部のマスコミに持て囃されていたが、やはり1部リーグとは違うという認識を新たにし、「神大RAVENS」としての確固たる地位を得たいという気持ちは大きく膨らんでいった。

 78年シーズンは、ブロック2位という成績に終わったが、チーム全員が一丸となり、1部リーグ昇格を成し遂げる翌シーズンの「プロローグ」となったシーズンであったと言えるだろう。

(レイバンズ30周年記念誌より抜粋)

1977(昭和52)年

 男子マネージャー中村のロビー活動により、前年にブロック優勝した実績から、体育会への加入が認められた77年。

初代監督である長井氏は、イランへと転勤され、後任には同じく一橋大学OBの森敏雄氏が監督を引き受けてくださった。

 秋季リーグ戦では前年に引き続き全勝でブロック優勝を果たした。
正式加盟としての最初の近畿学生リーグだった。

入れ替え戦出場権をかけてのトーナメントに向け、志广副将の車で愛知県みずほ球技場にまで出向き、スカウティングしたものの、プレーオフで愛知学院大学に敗北。

入れ替え戦出場を逃す、悔しい結果となった。

(レイバンズ30周年記念誌より抜粋)

1975(昭和50)年、1976(昭和51)年

 

「アメリカンフットボール部を創りたい、同志は4月26日、教養部・食堂前に集合」。この言葉から、RAVENSの歴史は始まる。

 その年、入学したばかりの松田(充啓)は、アメフト部を創るべく、教養部(現国際文化学部)の全教室の黒板にこの言葉を書いて回った。

運命の4月26日。
食堂前には、一人、また一人と、誰も連れ立ってくる様子は無く、同志たちが集まってきた。はじめは同好会としてのスタートだった。

 松田(純一)を除く全員が未経験者、見るからにアスリートという猛者がいるわけでもない、手探り状態での幕開け。ひたすらダミーを打ち、土にまみれ、ボールを追いかけ汗する毎日。そんな手作りのチームではあったが、純粋にフットボールを楽しむ気持ちとその喜びはRAVENSの歴史の中でも一番だったと言えるだろう。

 創部されたばかりのチームにとって幸運だったことは、経験者の松田(純一)がチームに加わっていたこと。体育教官の綿貫先生が顧問となり、部室の確保、カメラ・ビデオ等の備品が使用できたこと。教養部のグランドが使用できたこと。そして、他校でも創部が相次いだ時期であったこと。こういった幸運を背景にRAVENSの土台は作られ、一橋大学OB長井啓氏のコーチ就任で花開き、創部2年、わずか20数名でのブロック優勝を果たした。

 「RAVENS」の命名に際して念じたことは「甲子園へ」。その思いは以後のチームに絶えることなく伝わっている。

(レイバンズ30周年記念誌より抜粋)