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1999(平成11)年


 OL#58宮地、LB#45川本を中心として前年度までに活躍した選手も残っていたが、その他の大量の主力が抜け、再建色濃厚だった。しかし、2回生には高校でのフットボール経験者も多く、新チーム発足当初から2回生に期待を寄せていた。

これらの状況を踏まえ、初戦関西学院大学戦を突破するため考えた方針は「練習量」。春も夏も全員で猛練習にはげみ、その結果基礎が大きく成長した。

 残暑の厳しい中、初戦を迎えた。試合は前半こそは善戦したものの、エースRB#40朴木を完璧にマークされてオフェンスは封じられる。一方、ディフェンスもDL#92矢島の活躍もあり、要所で押さえ込んでいたがロングゲインを許し、後半で大きく離されて大敗を喫した。

 第2戦の近畿大学戦は0対9とリードを許し前半を折り返すが、第3Q、DB#20葛本のインターセプトから始まったシリーズでQB#18上岡のTD。TFPもきっちり決め、2点差に。第4Q、近畿大学がFGを外した後、自陣20ヤードからRB#40朴木、FB#2仁科、QB#18上岡のランを中心としたロングドライブで敵陣ゴール前18ヤードまで前進し、K#9田中がきっちりFGを決めて、試合終了まで残り10秒で大逆転。そのまま10対9で逃げ切った。ベンチはもちろん、応援団や観客席でもぎ取った勝利だった。

 この後、立命館大学戦、京都大学戦ともに善戦するも敗退し、最終戦の関西大学戦に勝利したのみで2勝5敗でシーズンを終えた。

(レイバンズ30周年記念誌より抜粋)

1998(平成10)年


 前年、4位に入るなど躍進し、3強に分け入るチャンスと目論んで挑んだ98年度のシーズン。
 秋のリーグ戦では、初戦の近畿大学戦で大勝して波に乗り、続く3強を打ち負かす、という計画だったが、怪我も少なく、満を持して臨んだ近畿大学戦では、RB#40朴木のTDランやDB#29平野のインターセプトなどで前半大量リードを奪いながら、後半にディフェンスがばてて逆転負けを喫した。これがシーズン最後まで尾を引くことになった。

 第2戦目の京都大学戦では主力の怪我などで大敗。続く立命館大学戦では完封され、関西学院大学戦も力負けと、3強の壁は予想よりも遥かに高く、あっという間に過ぎ去った。

 照準を1部残留に切り替えて望んだ同志社大学戦。95年から97年にかけて入れ替え戦では3年連続で対戦し、春にはキッキングのミスで失点した因縁の相手である。5点リードで迎えた第4Q、オフェンスが前に進まず、自陣でのディフェンスが続く苦しい展開となった。だが、最後は最終学年でDEにコンバートされて活躍した#69加藤が見事にQBサックを決めて勝利した。

 最終戦の大阪産業大学戦では、入れ替え戦を賭けた捨て身の勝負となった。この大事な一戦でオフェンス・ディフェンスが実力を発揮。シーズンで最も安心できる戦いぶりで勝利し、98年度シーズンを終えた。

(レイバンズ30周年記念誌より抜粋)

1997(平成9)年


 1部リーグで「一発やったろう!」という野望を抱き、我々がチームに求めたものは爆発力だった。3強に勝つには一筋縄ではいかない。だからこそ、失敗を承知でトレーニングや練習に新メニューを加えたり、オフェンス、ディフェンス、キッキングに新しい体系やサインを取り入れたりと、これまでにない取り組みを試みた。

失敗を恐れない、前向き、かつ大胆なチームを目指した。2部経験長かった分、常に挑戦者という気持ちを持ち、それまでくすぶっていた鬱憤を晴らそうとウズウズしていたので、チームがまとまるのは簡単なように思えた。

しかし、春の練習や試合では罵声や怒号が飛び交い、結果として反省点しか出てこない。思うようにプレーできないもどかしさ、先輩達が託した想い…目には見えない様々なプレッシャーが襲い掛かった。その重圧に押しつぶされそうになりながらも、現実の世界から眼をそらすことはなかった。

 現実の世界には、同じ「志」で、立てなくなるまで走り続け、声が出なくなるまで叫び続け、身も心もボロボロになりながらも不屈の闘志で前進し続ける仲間の姿があった。それこそが爆発力のあるチームの原動力だった。

立命館大学戦に敗北を喫し、迎えた京都大学戦で、その不屈の闘志は実を結んだ。オフェンスの多彩なプレー、7度にわたるディフェンスのターンオーバー。京都大学に勝利した瞬間、爆発力のあるチームがそこにあった。

 1部に復帰して1年目の97年シーズンは、3勝4敗同率4位で幕を閉じた。

(レイバンズ30周年記念誌より抜粋)

1996(平成8)年


 96年度4回生が入部した93年度は、関西4強の1校として華やかな舞台での試合の連続。しかし、2回生では入れ替え戦で同志社大学に敗退し2部に降格。3回生でも入れ替え戦で再び同志社大学に敗れ、1部昇格はならなかった。

チーム内に1部の強さ・速さ・華やかさを知る選手が年々少なくなる現実を目の当たりにし、「今年1部昇格できなければ万年2部リーグに居座ることになる」との危機感を募らせ、96年度の新チームが発足した。

 一方、国際文化学部グランドの傍らでは、神戸大OBの寄付によりクラブハウスが建築中であった。社会人コーチ・OB会・後援会の支援体制など1部に恥じない素晴らしい環境が整いつつある中、残されたのはチームの1部昇格だけであった。

 秋季リーグ戦は順当に連勝を続けるが、終盤にリーグ戦で敗戦。プレーオフでの逆転劇。入れ替え戦にやっとたどり着いた。相手は、積年の思いを晴らすため待ち焦がれていた同志社大学であった。

 12月8日。同志社大学の押しムードのゲーム展開。0対7とリードされて始まった後半第3Q、QBスニークでTDをあげた。7対7の同点で迎えた第4Q、再びTDを許すもTFPを防ぎ7対13.。第4Q、ハラハラドキドキの観客席とは対照的にフィールドでは虎視眈々と温存していたゲームプランが開花する時を待っていた。

4thダウンギャンブルもプラン通りに決め、残り1分50秒、RB#2上田のダイブで同点のTD。TFPも決まり14対13と逆転。

残り32秒から観客、選手が一体となってカウントダウン。
12月11日のクラブハウス竣工披露式に「1部昇格」の吉報をそえることができた。

(レイバンズ30周年記念誌より抜粋)

1995(平成7)年


 1995年1月17日。それは新チームとしての活動開始日であった。そしてその日の午前5時47分、阪神淡路大震災は起こった。「1部完全復帰」をスローガンに1部返り咲きを使命とし、フットボールに取り組んでいたが、その出鼻を挫かれる事態であった。

 部員の安否確認と人命救助活動を平行して行った。土に埋もれた方を何人も掘り起こし、地獄絵巻と化した六甲病院に運んだ。結局、部員の安否確認が取れたのは数日後となったが、幸いにも部員に死傷者はいなかった。その後は各自ボランティア活動を行い、平行して、神戸を堺に西地区、大阪北、大阪南の3箇所に分かれてトレーニングを定期的に行う日々が続いた。非効率な分散練習が1ヶ月続き、ジレンマを感じていた部員は、部長である衣田教授に「神戸でアメフトがしたい」と相談した。「いつまでも震災に負けていてはいけない。被災者にメッセージを送る意味においても学生の君達が神戸で活動するべきだよ」と勇気付けるアドバイスに背中を押され、下宿を失って参加できない者を除き、3月初旬から神戸に集まっての練習を開始した。大学グランドが利用できない一方、六甲高校様のご好意で夕方1時間程度グランドをお貸しいただいた。ポジションごとに別れ、空き地でパート練習をし、六甲高校で全体練習をする日々がしばらく続いた。

 秋のシーズン2部リーグでの戦いは順調に勝利を重ね、全勝で宿敵同志社大学との入れ替え戦を迎えた。ゲームはオフェンス・ディフェンスともに順調にゲームを運ぶものの決め手に欠き、残り2分を切って逆転を許し、8対5のスコアで敗戦した。

 震災下でのフットボール生活から、如何なる環境の変化にも前向きに頭を切り替え、ベストパフォーマンスをすることの大切さ、そして何より如何なる状況においても結果を残すことの重要さを学んだ1年であった。

(レイバンズ30周年記念誌より抜粋)

1994(平成6)年


 昨シーズンのスターティングメンバーから、オールジャパンクラスを含む大量の卒業生を出し、オフェンス・ディフェンス共に、ほぼゼロからのスタートとなった94年シーズン。非常に厳しい戦いとなるのは予想されたものの、目標はあくまで「甲子園」と掲げた。

 春のシーズンは、チーム全体において個々の力量不足などにより、思うような試合運びができないまま敗戦が続き、内容、結果ともにお世辞にも良いと言えるものではなかった。さらに、各ポジションで怪我人が予想以上に出るなど、万全の態勢で秋シーズン本番を迎えることは出来なかった。

 そして迎えた開幕戦は9月15日、近畿大学戦。激しい点の取り合いで第4Q終盤までリードしていたものの、残り1分33秒、逆転TDを奪われ、さらに追加点も取られて逆転負け。

2戦目の大阪体育大学戦は勝利を収めたものの、残り5試合はオフェンスの得点力不足、ディフェンスもここ一番でロングゲインを許してしまうというもろさを最後まで克服できずにその後は全敗となった。

 1部リーグ1勝6敗7位の成績で入れ替え戦出場。同志社大学との入れ替え戦にも敗れ、2部降格という結果に終わった。

(レイバンズ30周年記念誌より抜粋)

1993(平成5)年


 春季シーズンより積極的に練習試合を行い、さらに5月にはワシントン大よりコーチを招聘した。1週間の短期コーチングであったが、本場のフットボールの考え方を十分に吸収することができた。

そして例年になく厳しい合宿を経て、チームとして未だ達成していない関西制覇という栄光を手にするべく秋季シーズンを迎えた。

 関西大学、同志社大学に大勝し、開幕2連勝。前半戦の山場である立命館大学戦は、優勝を意識しての大一番。しかし、オフェンス・ディフェンスの歯車が噛み合わず、大敗。優勝戦線から大きく後退した。

その後、もう後がないと臨んだ近畿大学戦では立命館大学戦での大敗を払拭する内容で大勝。

そして、優勝するためには必ず超えなければならない壁である関西学院大学戦を迎えた。神戸大学史上最強RB#40井場と関西学院大学エースRB前島との戦いが話題となったが、結果は7対45の大敗。

関西制覇という目標は夢と消えた。大きく目標を失ったRAVENSはその後京都大学にも完敗。下位校には圧勝したが、上位校には完敗という悔しい結果でシーズンを終えた。

(レイバンズ30周年記念誌より抜粋)

1992(平成4)年

 「強いハドル」というテーマから始まった新チームの目標は「関西制覇」であった。

初戦から第4戦までが同志社大学、立命館大学、京都大学、関西学院大学と強豪校がひしめく過酷スケジュールの中、夏合宿にエースQB#16河田が戦線離脱という最悪の事態に見舞われた。

それを救ったのは3回生QB#2中島。初戦の前日「明日のためにやってきた。僕に任せてください」と言い切り、不安は払拭された。
その言葉通りオフェンス、ディフェンスともに同志社大学を圧倒し、幸先の良いスタートを切った。

 第2戦の立命館大学戦は第4Qの途中までリードしていたものの、自陣で痛恨のファンブルとなり、ディフェンスも踏ん張りきれず、14対24で惜敗。
シーズンの命運を分けた試合となった。

その後、背水の陣で望んだ京都大学戦は、QB#16河田が復帰して先発。
オフェンス・ディフェンスともに動きが冴え、21対7で2年前の「国立大決戦」の雪辱を果たした。

第4戦の関西学院大学戦では惨敗。その後、関西大学、京都産業大学、大阪体育大学に3連勝して最終成績は5勝2敗2位とRAVENS史上最高の成績を残した。

(レイバンズ30周年記念誌より抜粋)

1991(平成3)年

 前年、国立大学決戦と謂われた京都大学との最終戦での優勝決定戦で、チームはこの時期、上昇気流に乗っていた。

91年は「甲子園」を現実の目標として定める一方、前年の最終戦の大敗で、目標到達への最後の一歩の大きな壁を感じながらのスタートであった。

 春は、現在のRAVENSでは考えられないような試合数をこなし、連戦連勝。前年の結果が自信となり、皆もチームの勢いを感じていた。

 そして、秋のシーズンが開幕し、初戦の近畿大学戦は終始リードしながらも試合終了間際にまさかの逆転負け。続く関西学院大学にも敗れ、その後の試合ではチームの持っている実力を発揮できたように思えたものの、上位には接戦で負ける等、初戦敗退を最後まで引きずったシーズンとなった。

同じく初戦敗退の関西学院大学が最終的にはこの年の甲子園ボウルへ進んだことを考えると、「優勝を目指す」チームと「優勝する」チームとでは、組織力や選手の取り組み方がまだまだ違うレベルだと痛感したのであった。

(レイバンズ30周年記念誌より抜粋)

1990(平成2)年

 89年秋のシーズン終了間もない頃、翌年4回生となる19人が集まり、「来年神戸大学が甲子園ボウルに出場するためには我々は何をすべきか」というテーマでミーティングが行われた。

コーチングスタッフの問題、練習方法の問題、オフェンス・ディフェンスそれぞれが抱える問題、学業との両立の問題…そのミーティングは深夜まで続いた。

その中で最も重要であると位置づけたのは、のちに神戸大学を飛躍的に躍進させる大きなきっかけとなった「意識改革」である。そのときに、妥協は一切許さない空気をチーム全体に浸透させ、張り詰めた空気の中で1年間すべてをフットボールにかけることを誓った。

 9月9日、いよいよ秋のリーグ戦開幕。初戦の相手は当時現在ほど圧倒的な強さはなかったものの、確実に優勝を狙える実力を備えた立命館大学。結果は10対7と僅差の勝利であったが、オフェンスのバランスのとれた攻撃、自陣5ヤードでのピンチをインターセプトで切り抜けるディフェンスの活躍など、確実に手応えは感じていた。

 この初戦勝利をきっかけに、神大旋風が巻き起こった。2戦目同志社大学戦は14対21と惜敗したが、その後関西学院大学に創部15年目にして初勝利を収め、続く近畿大学、関西大学、京都産業大学と勝利を重ね、11月24日の京都大学との最終戦を迎えることになった。

 当時国立大決戦と謂われたその一戦は、試合会場が西宮球技場から急遽長居球技上に変更されるほど世間の注目、期待も高まっていた。しかし、残念ながら結果は0対45と完敗。
甲子園ボウルへの道はあと一歩のところで閉ざされてしまい、5勝2敗同率3位でシーズンを終えた。

(レイバンズ30周年記念誌より抜粋)