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1992(平成4)年

 「強いハドル」というテーマから始まった新チームの目標は「関西制覇」であった。

初戦から第4戦までが同志社大学、立命館大学、京都大学、関西学院大学と強豪校がひしめく過酷スケジュールの中、夏合宿にエースQB#16河田が戦線離脱という最悪の事態に見舞われた。

それを救ったのは3回生QB#2中島。初戦の前日「明日のためにやってきた。僕に任せてください」と言い切り、不安は払拭された。
その言葉通りオフェンス、ディフェンスともに同志社大学を圧倒し、幸先の良いスタートを切った。

 第2戦の立命館大学戦は第4Qの途中までリードしていたものの、自陣で痛恨のファンブルとなり、ディフェンスも踏ん張りきれず、14対24で惜敗。
シーズンの命運を分けた試合となった。

その後、背水の陣で望んだ京都大学戦は、QB#16河田が復帰して先発。
オフェンス・ディフェンスともに動きが冴え、21対7で2年前の「国立大決戦」の雪辱を果たした。

第4戦の関西学院大学戦では惨敗。その後、関西大学、京都産業大学、大阪体育大学に3連勝して最終成績は5勝2敗2位とRAVENS史上最高の成績を残した。

(レイバンズ30周年記念誌より抜粋)

1991(平成3)年

 前年、国立大学決戦と謂われた京都大学との最終戦での優勝決定戦で、チームはこの時期、上昇気流に乗っていた。

91年は「甲子園」を現実の目標として定める一方、前年の最終戦の大敗で、目標到達への最後の一歩の大きな壁を感じながらのスタートであった。

 春は、現在のRAVENSでは考えられないような試合数をこなし、連戦連勝。前年の結果が自信となり、皆もチームの勢いを感じていた。

 そして、秋のシーズンが開幕し、初戦の近畿大学戦は終始リードしながらも試合終了間際にまさかの逆転負け。続く関西学院大学にも敗れ、その後の試合ではチームの持っている実力を発揮できたように思えたものの、上位には接戦で負ける等、初戦敗退を最後まで引きずったシーズンとなった。

同じく初戦敗退の関西学院大学が最終的にはこの年の甲子園ボウルへ進んだことを考えると、「優勝を目指す」チームと「優勝する」チームとでは、組織力や選手の取り組み方がまだまだ違うレベルだと痛感したのであった。

(レイバンズ30周年記念誌より抜粋)

1990(平成2)年

 89年秋のシーズン終了間もない頃、翌年4回生となる19人が集まり、「来年神戸大学が甲子園ボウルに出場するためには我々は何をすべきか」というテーマでミーティングが行われた。

コーチングスタッフの問題、練習方法の問題、オフェンス・ディフェンスそれぞれが抱える問題、学業との両立の問題…そのミーティングは深夜まで続いた。

その中で最も重要であると位置づけたのは、のちに神戸大学を飛躍的に躍進させる大きなきっかけとなった「意識改革」である。そのときに、妥協は一切許さない空気をチーム全体に浸透させ、張り詰めた空気の中で1年間すべてをフットボールにかけることを誓った。

 9月9日、いよいよ秋のリーグ戦開幕。初戦の相手は当時現在ほど圧倒的な強さはなかったものの、確実に優勝を狙える実力を備えた立命館大学。結果は10対7と僅差の勝利であったが、オフェンスのバランスのとれた攻撃、自陣5ヤードでのピンチをインターセプトで切り抜けるディフェンスの活躍など、確実に手応えは感じていた。

 この初戦勝利をきっかけに、神大旋風が巻き起こった。2戦目同志社大学戦は14対21と惜敗したが、その後関西学院大学に創部15年目にして初勝利を収め、続く近畿大学、関西大学、京都産業大学と勝利を重ね、11月24日の京都大学との最終戦を迎えることになった。

 当時国立大決戦と謂われたその一戦は、試合会場が西宮球技場から急遽長居球技上に変更されるほど世間の注目、期待も高まっていた。しかし、残念ながら結果は0対45と完敗。
甲子園ボウルへの道はあと一歩のところで閉ざされてしまい、5勝2敗同率3位でシーズンを終えた。

(レイバンズ30周年記念誌より抜粋)

1989(平成元)年

 この年のオフェンスはIフォーメーションからのオプションを中心に、前年、京都大学を破る原動力となったRB#5西川、#35小武の走力を活かそうというものであった。
エースQB#7大久保のアフターにRB陣、WR陣もよく付き合い、秋のシーズンには何とか形になった。

 秋のシーズン開幕は宝ヶ池球技場での立命館大学戦。1回生を含む多くの下級生がスタメン出場し、前半は7対20とリードされたが、4回生OL#78山口を中心に若いラインがよくまとまり、RB#40萬谷のランなどで21対20と逆転。初戦突破かと思われたが、再逆転を許してしまった。

続く同志社大学戦も第3Qまでは拮抗していたもののファンブルから崩れて連敗スタートとなってしまった。

第3戦目の相手は関西学院大学。先制されたものの前半を7対10で折り返した。しかし、ファンブルなどで第4Qには7対24と突き放されでしまった。しかし、ここから怒涛の反撃が始まる。QB#7大久保のパスがWR#12井上、#14矢口に面白いように決まり、14対24として、続くオンサイドキックが成功。次のオフェンスシリーズでも3本のパスであっというまにTDが決まり、21対24と3点差に迫る。2回目のオンサイドキックも成功し、オフェンスに期待をつなぐが、最後のTDパスはエンドゾーンでカットされ、惜しい星を落としてしまった。

その後は、京都大学に完敗した後、甲南大学、京都産業大学には勝利。最終戦はスピードと強風に苦戦、近畿大学に完敗を喫してシーズンを終えた。

(レイバンズ30周年記念誌より抜粋)

1988(昭和63)年

 1部復帰という歓喜の中、「4回生が抜ければスタメンは3人しか残らない。」という不安を抱えながら始まった88年シーズン。

 西日本選手権では京都産業大学に48対21で勝ち、続く京都大学戦も7対16と善戦したが、横浜国立大学との定期戦、九州大学戦との交流戦は完敗に終わった。春の東西学生オールスター戦である西宮ボウルには神戸大学から誰も選ばれないという悔しい結果であった。

 秋の初戦、京都大学戦は2回生RB#5西川のランが炸裂。ディフェンスも踏ん張り、K#84西堀のFGもことごとく決まり、終わってみれば26対14の完勝だった。

しかし、その後、関西学院大学に完敗、続く甲南大学、同志社大学にも惜敗した。大阪体育大学には勝利したが、残留がかかった立命館大学戦は残り3秒でFGを決められてしまう。近畿大学にも敗れ、5位が3チームになり、7位を決める負け残りトーナメントのプレーオフに進むこととなった。

くじ引きの結果、1回戦は不戦敗となり、近畿大学と大阪体育大学の敗者との一発勝負。RB#5西川が注射を打って強行出場、勝利が確実になった終盤、リーグ戦で出場機会がなかったWR#20遠藤が1プレーだけ入り、TDパスをキャッチするなど、印象深い試合となり、1部残留が決まった。

(レイバンズ30周年記念誌より抜粋)

1987(昭和62)年

 87年12月3日。1部リーグ昇格をかけてRAVENSは長居球技場のフィールドに舞い降りた。相手は関西大学。ちょうど1年前、屈辱の敗北を喫した相手だった。

ここに至るまでの道のりは決して平坦なものではなく、入れ替え戦出場を決めるトーナメント準決勝の京都産業大学戦はピンチの連続の中、ぎりぎりの逆転勝ちで部員達はすでに満身創痍であった。

 神戸大学オフェンスで始まった入れ替え戦だが、ファンブル。関西大学はそのシリーズでFGを決め、先制する。神戸大学のオプション攻撃はことごとく止められ、焦る気持ちから自陣で無謀なギャンブル、失敗、そして関西大学のTD。

しかし、続く第2QでDB#22宮崎がインターセプトをし、流れを変えた。QB#9柳からWR#6渋谷へのロングパスが決まる。逆転し、前半10対14で折り返す。

後半の勢いは完全にRAVENSのものだった。「5、4、3…」カウントダウンがこだまする。
関西大学最後の攻撃はロングパス。ボールはDB#24澤村の手に収まり、時計は0を示した。

フィールドの選手、応援団員、観客席の誰もが互いに抱き合い、喜び、泣いた。
35対10で神戸大学1部復帰。まさに「臥薪嘗胆」の1年だった。

(レイバンズ30周年記念誌より抜粋)

1986(昭和61)年

 レイバンズ後援会が発足したこの年。横浜国立大学との交流戦を定期戦に改め、現在のような東西交互開催となる。

 京都大学や関西学院大学との力の差は歴然としていたが、目標はいつも「甲子園」であった。しかし、秋のリーグ戦の結果は同志社大学、大阪大学には勝利したものの、2勝5敗で7位。入れ替え戦出場となった。

 入れ替え戦の相手は関西大学。入れ替え戦には負けるはずはないと思っていた。しかし、1部校の「誇り」がいつの間にか「慢心」となっていたのだろうか?
結果は敗北。「惨めな気分」「砂を噛んだかの気分」「空気までもが重たい感じ」……。

この試合は86年度のチームにとって本当に「心に残る試合」であった。

(レイバンズ30周年記念誌より抜粋)

1985(昭和60)年

 創部10年という節目の年。
部員は100名を越えマンモスチームの仲間入りは果たしていたものの、タレント揃いの上級生は卒業した後で、1、2回生がレギュラーを狙う下克上が当たり前の年でもあった。

 春の練習試合では負けが続いた。また、新入生の鳥居が交通事故で亡くなり、言いようの無い悲しみがチームを包んだ。「鳥居君の分まで頑張るんや!」…部員全員が心に強く誓った。

 春の最終大阪体育大学戦では負けはしたものの、チームレベルが確実に上がってきていることを実感したのだった。
記録的な猛暑の夏を乗り切った、秋のリーグ戦。第3戦までは大阪体育大学、関西学院大学、京都大学と3連敗。第4戦の近畿大学戦では30対7でシーズン初勝利を手にした。

次の中京大学戦では逆転勝利。第6戦の同志社大学戦ではDB#13殿井が終盤の正念場でインターセプトし残留が決定。皆、歓喜の雄叫びをあげた。

 最終の立命館大学戦では10対28で初の勝ち越しを逃し、3勝4敗同率4位で85年シーズンを終えた。

(レイバンズ30周年記念誌より抜粋)

1984(昭和59)年

 春の西日本トーナメント3回戦。
数々の名勝負・名場面が繰り広げられた今はなき西宮球技場。
相手は前年12月の甲子園ボウルで日本大学を下し、続く1月に行われた日本選手権(ライスボウル)でもレナウンに競り勝って名実共に日本一のチームであった京都大学。

その京都大学を神戸大学が破るというビッグサプライズで84年のシーズンは幕をあけた。

 京都大学のキックオフで始まった第1Q、神戸大学オフェンスラインが京都大学オフェンスラインを完全に圧倒し、RB#34辻本が66ヤードを独走し、先制TDをあげた。その後もRB#19川上が69ヤードを走り抜き、TDを追加。第2QにはDB#44中井のインターセプトでチャンスを呼び込み、#19川上のFGが決まって16対0で前半を折り返した。

第3Qには、立て続けに2TDをあげる京都大学の猛反撃にあったが、神戸大学ディフェンスが踏ん張り、#19川上がダメ押しのTD。ベンチ・スタンドが一体となったカウント・ダウンの合唱の中、創部以来の悲願であった打倒京都大学が実現する瞬間を迎えた。

3TD、1FG、4インターセプトという攻守共に最高の内容での大金星。翌日はスポーツ紙を始め、全国紙までもが神戸大学の勝利を報道するほどの快挙であった。

(レイバンズ30周年記念誌より抜粋)

1983(昭和58)年

 春シーズンに主将#75白石、攻撃ラインの要・#52竹村が怪我に襲われ、秋にはエースQB#11今中、WR#13南も怪我で戦線離脱することになった。

また、関東の有力校と練習試合ができると勇んで出かけた山中湖夏合宿は数十年ぶりという大雨に見舞われ、まともに練習ができないという不運が重なったシーズンであった。

 前半の大阪体育大学、関西学院大学、近畿大学、京都大学と、上位校からは勝利を得ることはできなかった。絶対に落とせない立命館大学には無念の引き分け。既に一勝をあげていった大阪市立大学との一戦は、ロースコアの展開となったが、相手の反撃に対し総力のディフェンスで凌ぎ切り、初勝利をあげた。

 関西大学との入れ替え戦は第4Q残り4分、得点差13点で攻撃は関西大学。じりじりと攻め込まれていた。立命館大学戦から復帰していた主将#75白石がハドルに入り、力づいた神戸大学ディフェンスは最後のロングパスをエンドゾーンでカット。
試合終了のホイッスルが鳴り、1部残留を決めて次代へ夢をつないだ。

(レイバンズ30周年記念誌より抜粋)


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