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2002(平成14)年


 スターターが大幅に抜け、新チーム立ち上げ当初から2部降格が囁かれていた2002年シーズン。目標を「甲子園出場」とし、特に立命館大学との身体能力の差を痛感していたが、コンディショニングコーチを迎え、春夏を通じてファンダメンタル強化に取り組んだ。

その効果もあり、春シーズンで大きな故障者を出すこともなく、チーム全体の底上げをすることができた。

 万全の準備をして挑んだシーズン開幕戦の相手は近畿大学。第1Qの早い時間帯に先制される苦しい立ち上がりとなったが、第4QにRB#33大崎のTDランで逆転、9年ぶりの1部リーグ開幕戦勝利をあげた。第2戦からの対3強戦は地力の差を見せつけられ、1勝3敗で前半戦を折り返すこととなった。

 第5戦の同志社大学戦はDB#17吉村の3インターセプト、RB#33大崎の3TDと3回生が活躍し、完封勝利を収めた。しかし続く大阪産業大学戦でまさかの敗北。最終戦の甲南大学戦は拮抗した展開となったが、シーズンを通じて好調だったディフェンス陣の活躍から徐々に主導権を握ると、第4Q、RB#22坂東のTDで突き放し、勝利という最高の形でシーズンを終えた。

(レイバンズ30周年記念誌より抜粋)

2001(平成13)年


 前年度に試合経験を積んだメンバーが多く残り、特にラインでは近年稀にみる大型ラインが4回生を中心に揃い、「今年こそは3強を倒し、念願である甲子園ボウル出場をかなえることができるのではないか」と考え、迷わず目標は「甲子園」となった。

そのために、まず取り組んだのが「チーム改革」。アメフトだけでなく、スポーツの種目を問わず、トップに立ったことのある人・チームに話を聞いたり、見学したりして、どういったチーム作りが必要かを学んでいった。

その中には85年に阪神タイガースを優勝に導いた吉田義男氏、松虫中学陸上部顧問の原田隆史氏など著名人もいた。その中で目標に向けて最も自分達に足りないと感じたものは「最後までやりきる」という姿勢。どういった方法、考え方でも間違いはなく、最後まで自分達を信じ、信念を貫き通すことが最も大切だと学んだ。そしてチーム全員でその姿勢の徹底に努めた。

 初戦前日。チーム全員が心を1つにして、自分達の選んだ道を信じ、一歩を踏み出そうという意味の「一心一歩」という言葉の書かれたリストバンドが国本主将から全員に手渡された。しかし、初戦の甲南大学戦は攻守の歯車が噛み合わないまま時間だけが過ぎ、何もできずに試合が終了してしまった。

そのままずるずると3強との試合でも敗戦し、続く近畿大学戦にも敗れ、入れ替え戦が目の前にちらつく状況になってしまった。残り2戦。大阪産業大学戦に快勝し、最終戦の同志社大学戦では先制を許すものの、第4Q自陣からの攻撃をTDに結び付けて1点差、2点コンバージョンも成功させ逆転に成功、最後はインターセプトで勝負を決めた。

そして抽選の結果5位となり1部残留でシーズンを終えた。

(レイバンズ30周年記念誌より抜粋)

2000(平成12)年


 この年の選手数はとても少なく、特に4回生の人数はディフェンスが4人だけという未だ経験したことの無い状況であった。従来の運営形態を踏襲するのは難しく、新たな形態を模索していた。

その時に根源的なものとして追求していたのが「なぜフットボールをしているのか」「レイバンズらしさとはなにか」であった。そして議論の末、クラブが、フットボールが好きでやっているのであり、我々の意志、自主性こそがレイバンズであるという結論に至った。 そして「RAVENS」らしく、打倒3強の目標へ試行錯誤を繰り返しながら進んだ。メンタルトレーニングの導入など、新しい試みを取り入れもした。

 「勝つ」気持ちで臨んだ秋季リーグ初戦の甲南大学戦には先制しながらも敗退。続く京都大学戦にも前半リードをしながら後半逆転負け。立命館大学、関西学院大学には完敗と、厳しい現実をつきつけられた前半戦だった。

後半戦の大阪産業大学戦には完封勝利、同志社大学戦では獲得ヤードで2倍の差をつけられたものの競り勝ち、近畿大学戦には引き分け、シーズンを2勝4敗1分で終えた。

(レイバンズ30周年記念誌より抜粋)

1999(平成11)年


 OL#58宮地、LB#45川本を中心として前年度までに活躍した選手も残っていたが、その他の大量の主力が抜け、再建色濃厚だった。しかし、2回生には高校でのフットボール経験者も多く、新チーム発足当初から2回生に期待を寄せていた。

これらの状況を踏まえ、初戦関西学院大学戦を突破するため考えた方針は「練習量」。春も夏も全員で猛練習にはげみ、その結果基礎が大きく成長した。

 残暑の厳しい中、初戦を迎えた。試合は前半こそは善戦したものの、エースRB#40朴木を完璧にマークされてオフェンスは封じられる。一方、ディフェンスもDL#92矢島の活躍もあり、要所で押さえ込んでいたがロングゲインを許し、後半で大きく離されて大敗を喫した。

 第2戦の近畿大学戦は0対9とリードを許し前半を折り返すが、第3Q、DB#20葛本のインターセプトから始まったシリーズでQB#18上岡のTD。TFPもきっちり決め、2点差に。第4Q、近畿大学がFGを外した後、自陣20ヤードからRB#40朴木、FB#2仁科、QB#18上岡のランを中心としたロングドライブで敵陣ゴール前18ヤードまで前進し、K#9田中がきっちりFGを決めて、試合終了まで残り10秒で大逆転。そのまま10対9で逃げ切った。ベンチはもちろん、応援団や観客席でもぎ取った勝利だった。

 この後、立命館大学戦、京都大学戦ともに善戦するも敗退し、最終戦の関西大学戦に勝利したのみで2勝5敗でシーズンを終えた。

(レイバンズ30周年記念誌より抜粋)

1998(平成10)年


 前年、4位に入るなど躍進し、3強に分け入るチャンスと目論んで挑んだ98年度のシーズン。
 秋のリーグ戦では、初戦の近畿大学戦で大勝して波に乗り、続く3強を打ち負かす、という計画だったが、怪我も少なく、満を持して臨んだ近畿大学戦では、RB#40朴木のTDランやDB#29平野のインターセプトなどで前半大量リードを奪いながら、後半にディフェンスがばてて逆転負けを喫した。これがシーズン最後まで尾を引くことになった。

 第2戦目の京都大学戦では主力の怪我などで大敗。続く立命館大学戦では完封され、関西学院大学戦も力負けと、3強の壁は予想よりも遥かに高く、あっという間に過ぎ去った。

 照準を1部残留に切り替えて望んだ同志社大学戦。95年から97年にかけて入れ替え戦では3年連続で対戦し、春にはキッキングのミスで失点した因縁の相手である。5点リードで迎えた第4Q、オフェンスが前に進まず、自陣でのディフェンスが続く苦しい展開となった。だが、最後は最終学年でDEにコンバートされて活躍した#69加藤が見事にQBサックを決めて勝利した。

 最終戦の大阪産業大学戦では、入れ替え戦を賭けた捨て身の勝負となった。この大事な一戦でオフェンス・ディフェンスが実力を発揮。シーズンで最も安心できる戦いぶりで勝利し、98年度シーズンを終えた。

(レイバンズ30周年記念誌より抜粋)

1997(平成9)年


 1部リーグで「一発やったろう!」という野望を抱き、我々がチームに求めたものは爆発力だった。3強に勝つには一筋縄ではいかない。だからこそ、失敗を承知でトレーニングや練習に新メニューを加えたり、オフェンス、ディフェンス、キッキングに新しい体系やサインを取り入れたりと、これまでにない取り組みを試みた。

失敗を恐れない、前向き、かつ大胆なチームを目指した。2部経験長かった分、常に挑戦者という気持ちを持ち、それまでくすぶっていた鬱憤を晴らそうとウズウズしていたので、チームがまとまるのは簡単なように思えた。

しかし、春の練習や試合では罵声や怒号が飛び交い、結果として反省点しか出てこない。思うようにプレーできないもどかしさ、先輩達が託した想い…目には見えない様々なプレッシャーが襲い掛かった。その重圧に押しつぶされそうになりながらも、現実の世界から眼をそらすことはなかった。

 現実の世界には、同じ「志」で、立てなくなるまで走り続け、声が出なくなるまで叫び続け、身も心もボロボロになりながらも不屈の闘志で前進し続ける仲間の姿があった。それこそが爆発力のあるチームの原動力だった。

立命館大学戦に敗北を喫し、迎えた京都大学戦で、その不屈の闘志は実を結んだ。オフェンスの多彩なプレー、7度にわたるディフェンスのターンオーバー。京都大学に勝利した瞬間、爆発力のあるチームがそこにあった。

 1部に復帰して1年目の97年シーズンは、3勝4敗同率4位で幕を閉じた。

(レイバンズ30周年記念誌より抜粋)

1996(平成8)年


 96年度4回生が入部した93年度は、関西4強の1校として華やかな舞台での試合の連続。しかし、2回生では入れ替え戦で同志社大学に敗退し2部に降格。3回生でも入れ替え戦で再び同志社大学に敗れ、1部昇格はならなかった。

チーム内に1部の強さ・速さ・華やかさを知る選手が年々少なくなる現実を目の当たりにし、「今年1部昇格できなければ万年2部リーグに居座ることになる」との危機感を募らせ、96年度の新チームが発足した。

 一方、国際文化学部グランドの傍らでは、神戸大OBの寄付によりクラブハウスが建築中であった。社会人コーチ・OB会・後援会の支援体制など1部に恥じない素晴らしい環境が整いつつある中、残されたのはチームの1部昇格だけであった。

 秋季リーグ戦は順当に連勝を続けるが、終盤にリーグ戦で敗戦。プレーオフでの逆転劇。入れ替え戦にやっとたどり着いた。相手は、積年の思いを晴らすため待ち焦がれていた同志社大学であった。

 12月8日。同志社大学の押しムードのゲーム展開。0対7とリードされて始まった後半第3Q、QBスニークでTDをあげた。7対7の同点で迎えた第4Q、再びTDを許すもTFPを防ぎ7対13.。第4Q、ハラハラドキドキの観客席とは対照的にフィールドでは虎視眈々と温存していたゲームプランが開花する時を待っていた。

4thダウンギャンブルもプラン通りに決め、残り1分50秒、RB#2上田のダイブで同点のTD。TFPも決まり14対13と逆転。

残り32秒から観客、選手が一体となってカウントダウン。
12月11日のクラブハウス竣工披露式に「1部昇格」の吉報をそえることができた。

(レイバンズ30周年記念誌より抜粋)

1995(平成7)年


 1995年1月17日。それは新チームとしての活動開始日であった。そしてその日の午前5時47分、阪神淡路大震災は起こった。「1部完全復帰」をスローガンに1部返り咲きを使命とし、フットボールに取り組んでいたが、その出鼻を挫かれる事態であった。

 部員の安否確認と人命救助活動を平行して行った。土に埋もれた方を何人も掘り起こし、地獄絵巻と化した六甲病院に運んだ。結局、部員の安否確認が取れたのは数日後となったが、幸いにも部員に死傷者はいなかった。その後は各自ボランティア活動を行い、平行して、神戸を堺に西地区、大阪北、大阪南の3箇所に分かれてトレーニングを定期的に行う日々が続いた。非効率な分散練習が1ヶ月続き、ジレンマを感じていた部員は、部長である衣田教授に「神戸でアメフトがしたい」と相談した。「いつまでも震災に負けていてはいけない。被災者にメッセージを送る意味においても学生の君達が神戸で活動するべきだよ」と勇気付けるアドバイスに背中を押され、下宿を失って参加できない者を除き、3月初旬から神戸に集まっての練習を開始した。大学グランドが利用できない一方、六甲高校様のご好意で夕方1時間程度グランドをお貸しいただいた。ポジションごとに別れ、空き地でパート練習をし、六甲高校で全体練習をする日々がしばらく続いた。

 秋のシーズン2部リーグでの戦いは順調に勝利を重ね、全勝で宿敵同志社大学との入れ替え戦を迎えた。ゲームはオフェンス・ディフェンスともに順調にゲームを運ぶものの決め手に欠き、残り2分を切って逆転を許し、8対5のスコアで敗戦した。

 震災下でのフットボール生活から、如何なる環境の変化にも前向きに頭を切り替え、ベストパフォーマンスをすることの大切さ、そして何より如何なる状況においても結果を残すことの重要さを学んだ1年であった。

(レイバンズ30周年記念誌より抜粋)

1994(平成6)年


 昨シーズンのスターティングメンバーから、オールジャパンクラスを含む大量の卒業生を出し、オフェンス・ディフェンス共に、ほぼゼロからのスタートとなった94年シーズン。非常に厳しい戦いとなるのは予想されたものの、目標はあくまで「甲子園」と掲げた。

 春のシーズンは、チーム全体において個々の力量不足などにより、思うような試合運びができないまま敗戦が続き、内容、結果ともにお世辞にも良いと言えるものではなかった。さらに、各ポジションで怪我人が予想以上に出るなど、万全の態勢で秋シーズン本番を迎えることは出来なかった。

 そして迎えた開幕戦は9月15日、近畿大学戦。激しい点の取り合いで第4Q終盤までリードしていたものの、残り1分33秒、逆転TDを奪われ、さらに追加点も取られて逆転負け。

2戦目の大阪体育大学戦は勝利を収めたものの、残り5試合はオフェンスの得点力不足、ディフェンスもここ一番でロングゲインを許してしまうというもろさを最後まで克服できずにその後は全敗となった。

 1部リーグ1勝6敗7位の成績で入れ替え戦出場。同志社大学との入れ替え戦にも敗れ、2部降格という結果に終わった。

(レイバンズ30周年記念誌より抜粋)

1993(平成5)年


 春季シーズンより積極的に練習試合を行い、さらに5月にはワシントン大よりコーチを招聘した。1週間の短期コーチングであったが、本場のフットボールの考え方を十分に吸収することができた。

そして例年になく厳しい合宿を経て、チームとして未だ達成していない関西制覇という栄光を手にするべく秋季シーズンを迎えた。

 関西大学、同志社大学に大勝し、開幕2連勝。前半戦の山場である立命館大学戦は、優勝を意識しての大一番。しかし、オフェンス・ディフェンスの歯車が噛み合わず、大敗。優勝戦線から大きく後退した。

その後、もう後がないと臨んだ近畿大学戦では立命館大学戦での大敗を払拭する内容で大勝。

そして、優勝するためには必ず超えなければならない壁である関西学院大学戦を迎えた。神戸大学史上最強RB#40井場と関西学院大学エースRB前島との戦いが話題となったが、結果は7対45の大敗。

関西制覇という目標は夢と消えた。大きく目標を失ったRAVENSはその後京都大学にも完敗。下位校には圧勝したが、上位校には完敗という悔しい結果でシーズンを終えた。

(レイバンズ30周年記念誌より抜粋)


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